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所沢航空発祥記念館で設計を考える②

1945年8月7日。

日本で、ある飛行機が初飛行しました。

その飛行機の名前は「橘花」(きっか)。

橘花の写真です。ご参考ください。

日本初のジェット機でした。終戦のわずか8日前のことです。ドイツのジェット戦闘機の技術供与があり完成までこぎつけたそうです。でも、その技術を運ぶはずだった潜水艦は途中で撃沈されており、わずかに残された資料から、ほとんど独力で開発したそうです。

機体の製造は、中島飛行機株式会社。

今の富士重工業です。「スバル」と言った方がわかりいいですね。富士重工は、昔、中島飛行機という会社だったのです。

その富士重工が作った飛行機が、ここ、所沢航空発祥記念館に展示されていると聞いたら興味沸いてきませんか?

今日は、そのお話をしたいと思います。退屈でなければ、しばしお付き合い頂ければ幸いです。

戦争が終わったら。

終戦を迎えて、全てが変わってしまいました。飛行機を設計していて、救国の英雄だったはずの設計者たちも、軍に協力した戦争犯罪者と後ろ指を指されるようになり、戦争に使われるような技術開発は、全て禁止されてしまいました。もちろん飛行機の設計も禁止され、日本の飛行機の技術は、全て破棄されてしまったのです。

日本に飛行機の開発が許されるようになったのは、1952年のこと。(一部解除ですが。)

7年間、飛行機の技術開発が一切できなかったのです。その空白は、絶望的な空白だったといいます。この時代は丁度、飛行機に革命が起こっていたのです。

プロペラを回して空を飛んでいた飛行機が、燃料を取り込んだ空気と直接混ぜて爆発させて噴射する、ジェットエンジンに切り替わりつつあった時代だからです。世界の最先端から完全に取り残されてしまったのです。

ジェット練習機を作って欲しい!

そんな中での1955年。発足したばかりの航空自衛隊から、国内の飛行機を開発できそうな4社に機体設計の公募がかかりました。

「ジェット練習機を作って欲しい。」

当然、在日米軍や、防衛庁内からは、アメリカ製の飛行機を使えと圧力がかかります。それでも、国内の飛行機技術を復活させたいとの思いで公募に踏み切ったのです。

公募に選ばれた4社だって技術など皆無だったので、皆、及び腰な様子でした。1社は辞退。残り3社の内2社は、すでに技術としては安定感のある保守的な設計案。

唯一、挑戦的かつ実現可能と見られるギリギリの案を出したのが富士重工だったというわけなのです。

富士T-1という飛行機

全て失われてしまい、何も無い状態からの技術開発。過去に「橘花」を飛ばせた実績があるとは言え、時代は変わっているのです。国内外のあらゆる情報をかき集めて試作1号機をなんとか完成させました。当初予定していた初の国産ジェットエンジンは間に合いませんでしたけれど。。。

1958年1月19日。国産初のジェット練習機 富士T-1は初飛行したのです。

2006年には、全ての機体が現役を引退しており、空を飛ぶ姿は見れなくなっています。

初飛行のパイロットは、高岡廸(たかおか すすむ)1等空佐(当時)。

実はこの方、冒頭でご案内した「橘花」を初飛行させたパイロットだったそうです。日本初のジェット機、日本初のジェット練習機を、同一人物が操縦していた。そしてその飛行機を、中島飛行機、その末裔である富士重工が作っていた。

何か、たまらないロマンを感じてしまいました。

というロマンを所沢航空発祥記念館で見つけてしまったのですよ!!!

機体の解説ボードを見て感動してしまいました。

これ、国産ジェットエンジンです!!

初飛行時に国産が間に合わず、イギリス製のジェットエンジンを積んでいたのですが、1960年、国産ジェットエンジンも完成して純国産のジェット練習機が飛ぶようになりました。

苦節15年。念願の国産ジェット機が、完成して空を飛べるようになったのです。技術者の執念にも似た情熱、戦争は負けても技術では負けないという不屈の魂を感じて胸が熱くなりました。

所沢航空発祥記念館で是非、一度見てみてください。流れる曲線が美しい。その美しい姿とは裏腹に、一度は虐げられた技術者の熱い思いを感じて頂ければ、望外の喜びです。

やっぱりスバル愛。(いすゞ自動車も好きだけど。)

以上、設計の白比でした。

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